青い目の人形と三隈幼稚園

大正中期からアメリカでは排日運動が始まり日米関係が険悪化する中、親日家の牧師ギューリック博士はこの状況にひどく心を痛めました。そこで雛祭りの伝統行事を持つ日本の子どもたちに、アメリカの人形を雛人形と一緒に飾ってもらい、人形を通して友情交流を深めようと願い、全米で寄付お募り青い目の人形を贈る計画を立てました。この計画に協力した人々は、全米48州270万人と言われております。博士と全米の願いを、1 万2千体の人形に託し船は1927年(昭和2年)日本に入港しました。

海を渡ってきたお人形たちは盛大な歓迎を受け、配布希望が殺到する中、選ばれた全国の小学校・幼稚園へ配布されました。配布された学校では、子どもや保護者・先生はもちろん町をあげての熱烈な歓迎を受け3月3日に青い目の人形と雛人形は、並んで飾られました。大分県は182体、うち日田市には5体配布されました。

日本からはお礼として女児一人一銭の寄付を全国260万人より募り「答礼人形(非常に高価で大きな市松人形)」を58 体(現在44体がアメリカで残っている) アメリカへ贈り、日米の平和と友情の願いは叶えられました。

しかし、1941年(昭和16年)日米間で太平洋戦争が始まり、青い目の人形は敵国視され多数の人形は壊されてしまいました。そんな中「人形に罪はない」と戸棚や倉庫に隠し持ち、大切に保管された人形もありました。

現在、大分県日田市三隈幼稚園に数奇な運命を辿った青い目の人形が2体肩を並べて残っており、当時の子どもたちが祭りと一緒にこの人形を歓迎したのを再現し、青い目の人形を出来るだけ多くの人々に見て頂きたいと思っております。三隈幼稚園では、当時の暗い時代を乗り超えたこの青い目の人形を、天領日田お雛まつりに併せ、パレードを行っています。(※諸事情により中止される場合もあります)

2体の人形のパスポートと船のチケット

人形に添えられていた1920年代の生活様式のわかる
アルバムと人形の保管されていた茶箱

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